「斜陽」 夾竹桃 と ねむの花 解説
おひさしぶりです。
時間ができたので、またまた斜陽について。
個人的な解釈なのであしからず。
結構長い解説になります。
母「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」
母「私は、ねむの花が好きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いのね」
斜陽で気になったところです。
私はこの文から母親は我が一生を終えたいと
静かながら考えていると思いました。
また、合歓の花は季語では晩夏を指し、
8月下旬から9月上旬を指します。
母親の死は10月であり夏の終わりとなり、
合歓の花の咲き終えた頃が母親の死と
同じくらいの頃になります。
合歓の花はこの後に登場する
夾竹桃の花とは対照的で
繊細で上品なイメージを感じます。
また、夜になると自然と葉を閉じて
花が見えなくなることから
少し儚さのようなものも感じます。
実際の合歓の花
これが戦前貴族であった
母親の比喩として用いられていると
私は個人的に考えます。
娘「夾竹桃がたくさんあるんじゃないの」
私は、わざと、つっけんどんな口調で言った。
母「あれはきらいなの。夏の花はたいていすきだけど、あれは、おきゃんすぎて」
母「私なら薔薇がいいな…」と
述べたところでこの話は終えます。
おきゃん(御侠)とは…
若い女性。活発で慎ましさのないこと。
とされており、文中では貴族であった
母親が自身の生きる時代の女性像である
上品で淑やかな慎ましい女性とは違う
戦後のパワフルで活発な女性が嫌いであると言ってるとも受けとれます。
実際の夾竹桃
夾竹桃は有毒であり毒が
母親を蝕む様子が死期迫ることを
表現しているのか、戦後の生きづらさを
表現しているのかは僕にはわかりません。
また、夾竹桃は原爆が落ちた後
広島で最初に花を咲かせたと言われており、
戦後の日本を象徴する花であるとも言えます。
夾竹桃が嫌い、つまり貴族であった母親は
戦後の時代が嫌いと読み取れると思います。
「油断大敵」「用心」であり
死期が迫ることを意味しているのか
もしくは「危険な愛」という意味から
娘と親の危険な愛 (親離れ、子離れできてない)
ことを指しているのではないかと
私は考えます。
長々しくなりましたが
私なりの個人的な捉え、考えなので
興味があれば自分なりの解釈を
大切にして読んで頂ければと思います。